縄文晩期〜弥生初期(水田と集落)
服部遺跡の最下層から日本有数の水田跡が見つかっています。弥生初期には広大な水田と稲作を行った人たちの集落が広がっていました。遺構・遺物としては縄文晩期と弥生前期のものが共存しており、水田稲作が始まったころの人々の様子がうかがえます。
春の水田 イラスト:守山市史(考古編)
春の水田 イラスト:守山市史(考古編)
遺跡分布
野洲川上流側(南側)の緩い傾斜のある低地(A・B区域)に弥生時代初期の水田が広がり、その北側のやや微高地(C区域)に縄文晩期〜弥生時代初期の土坑・ピットなどの遺構や遺物が混在して見つかっています。
縄文晩期〜弥生初期の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)
この当時、A・B区域に広がっていたと思われる水田域は、弥生時代中期末の大洪水によって削り取られ、そこに大きな川が流れるようになりました。
縄文晩期〜弥生初期の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)
この当時、A・B区域に広がっていたと思われる水田域は、弥生時代中期末の大洪水によって削り取られ、そこに大きな川が流れるようになりました。
縄文晩期
縄文晩期の遺構は見つかっていませんが、縄文晩期の遺物が弥生時代のものと同時に存在していました。
野洲川流域には縄文晩期に水田稲作が伝わったようですが、縄文晩期の遺跡から出土する土器を調べると、縄文土器および弥生前期の土器が一緒に出てくる遺跡群がいくつもあります。
水耕稲作の文化をもった弥生人がこの地にやってきて稲作を始めただけではなく、その技術を受け取った土着の人がその地で水耕稲作をはじめたと考えられます。
このような遺跡の分布を見ると、湖岸や川の傍の湿地帯に多くの集落が見られます。服部遺跡もその一つで
灌漑が容易にできる、米つくりに適した場所から稲作が始まったのでしょう。
服部遺跡から見つかっている縄文時代の遺物は、石棒や土器があります。
石棒は地面に立てた状態で見つかっており、その状態で使われたと見られます。
石棒は土偶と共に五穀豊穣、子孫繁栄を祈り、生命の再生を願う祭りに使用されたと考えらえます。
地面に突き立てられた石棒 |
縄文晩期の土器 |
弥生時代初期の水田跡
水田跡
ここで発見された水田跡は弥生中期末の洪水による旧河道(A、B、C)によって深く抉(えぐ)られているもののおおよそ約2万uの広さに及びます。水田遺構は弥生中期の方形周溝墓の遺構面からさらに50cm〜100cm下層に検出されました。水田面の上には野洲川の氾濫によってもたらされた堆積物が厚く被さっており、大洪水によって一気に埋没したことがうかがえます。この結果、後世に遺構があまり壊されることなく、タイプカプセルのように保存されていたのです。
水田跡の全貌 |
小区画水田 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変) |
水田の区画数は260面ほど確認できますが、水田跡の北側部分は畦の形状が崩れていたり、後世の墓の深い溝によって破壊されたりして、水田一面の形が判明していません。面積から推測すると約400面の水田があったと思われます。
水田跡図面から判るように、水田跡の東西側は古墳時代の大きな川で押し流されています。当時はもっと広い水田域であったと思われます。さらにその外側の河川敷部分は未発掘で、ここにも水田が広がっていた可能性があり、見つかった水田跡の数倍の面積の水田があったのかもしれません。
水田構造
中央部に畦で仕切られた大きな溝があり、その他にも畦によって区画された用排水路が設けてありました。水を全ての田に均等に回すための工夫が盛り込まれています。大規模な土地開墾をせずに地形に沿って水田を作り、灌漑(かんがい)に工夫を凝らした、当初から稲作技術が進展していた水田遺構と考えられます。
【大畦と小畦】
大畦は耕作地と同じ土を用いており幅80cm〜150cm、高さ15cm〜30cmで上面が平らな形状になっています。この大畦は土を盛り上げたり、斜面では削り出したりして作られています。主に斜面や地形の変わる所に作られ、水の流れを変えたり、滞水が安定するような配慮がなされています。
大畦は中央用水路添いに南北を貫くものと、地形の傾斜を考慮して南北方向に設けたもの、それらを東西に結ぶものなど、水田を大きく区切りまた、農作業用の通路としても利用されたようです。
小畦も耕作土を用いて幅20cm〜60cm、高さ5cm〜20cmの土盛りで、滞水を目的として地形に合わせて小区画の水田を形作っています。小畦は単に水田を区切るだけだはなく、水の流れる方向を考え、給水・排水が微小な高度差でもうまくいくように計画的に作られています。
この小畦は人が歩くためのものではなく、苗に必要な水を供給すると同時に、発芽から稚苗の間、早朝の温度低下を防ぐという利点があります。一枚一枚の田面は引排水を容易にするために一定方向に作られており、一部を除いて整然とした碁盤目状の方形ないし長方形になっています。
このように畦の作り方から見ても、稲作技術の進展が見られます。
大畦は中央用水路添いに南北を貫くものと、地形の傾斜を考慮して南北方向に設けたもの、それらを東西に結ぶものなど、水田を大きく区切りまた、農作業用の通路としても利用されたようです。
小畦も耕作土を用いて幅20cm〜60cm、高さ5cm〜20cmの土盛りで、滞水を目的として地形に合わせて小区画の水田を形作っています。小畦は単に水田を区切るだけだはなく、水の流れる方向を考え、給水・排水が微小な高度差でもうまくいくように計画的に作られています。
この小畦は人が歩くためのものではなく、苗に必要な水を供給すると同時に、発芽から稚苗の間、早朝の温度低下を防ぐという利点があります。一枚一枚の田面は引排水を容易にするために一定方向に作られており、一部を除いて整然とした碁盤目状の方形ないし長方形になっています。
このように畦の作り方から見ても、稲作技術の進展が見られます。
水田跡とあぜ道、給排水路 |
春の水田の想像図 |
【用排水路】
用水路は引水・排水を行う中央用水路とそこから分岐して西側を流れる西水路があります。中央用水路は大畦と大畔(一部小畦)に囲まれており水路幅1.4m〜2mで約240mを40cmの比高で流れています。深さは地面の凹凸にもよりますが、傾斜部では80cm、平地では20cm程度です。
西水路は旧河道によって消滅した西側の水田への用水供給をしていたと考えられ、相当広い水田が旧河道によって破壊されたようです。
排水路は、東西方向に1本見られます。用水路と同様、大畦と小畦に囲まれており、幅1m〜0.5mで東方向への排水に使用されています。
畦や用水・排水路には水を流すための水口や堰(せき)が必要に応じて設けられており、苗の生育に応じて水の管理が行われていたことが判ります。
西水路は旧河道によって消滅した西側の水田への用水供給をしていたと考えられ、相当広い水田が旧河道によって破壊されたようです。
排水路は、東西方向に1本見られます。用水路と同様、大畦と小畦に囲まれており、幅1m〜0.5mで東方向への排水に使用されています。
畦や用水・排水路には水を流すための水口や堰(せき)が必要に応じて設けられており、苗の生育に応じて水の管理が行われていたことが判ります。
【田面内の様子】
小畦で囲まれた田面内は必ずしも平坦ではなく起伏があるが、小畦の高さの範囲内で、田面は必ず滞水するように工夫されています。
田面には土が乾燥したときに見られる亀裂が縦横に入っており、洪水が起きたときは干ばつに見舞われていたのではないかと考えられます。
また、田面の所々に直径5cm〜7cmの不整円形の変色部が認められ、当時の稲株の跡とみられます。これは土中に自然に存在する酸化鉄が稲に吸着して変色するものです。
また、水田面の科学的調査で、稲のプラントオパールや花粉が見つかっています。
また、水田面の科学的調査で、稲のプラントオパールや花粉が見つかっています。
竪穴住居
水田跡の北側(C D区域)に当時の集落跡が見つかっており、水田経営をしていた人たちのムラの一部と考えられます。
この地区の遺構は、中期の方形周溝墓の築造によりズタズタになっており、遺構としてのまとまりがないものの多量の遺物の出土があり、土坑やピットなど円形の竪穴住居跡や方形周溝墓状の遺構とみられるものもあります。このような状況から水田経営にあたった集落がここにあったことはほぼ確実です。
この地区の遺構は、中期の方形周溝墓の築造によりズタズタになっており、遺構としてのまとまりがないものの多量の遺物の出土があり、土坑やピットなど円形の竪穴住居跡や方形周溝墓状の遺構とみられるものもあります。このような状況から水田経営にあたった集落がここにあったことはほぼ確実です。
出土した遺物
弥生時代前期の遺物としては、水田北側の微高地から、打製の石斧・石鏃・用途不明の石器のほか土器が多量に出ています。田の耕作に使ったと思われる打製石器の農具も出ています。
土器の大半は、稲作とともに伝わった遠賀川式土器で、あと、縄文系の伊勢湾東海式の土器が見られます。
稲作技術と一式で磨製石器も伝わってきているのですが弥生前期の服部遺跡からは見つかっていません。遠賀川式の土器と縄文系の土器が一緒に見つかっていることや打製石器が使われていることを考え合わせると、服部遺跡には稲作技術を受け入れた縄文人が住んでいたと思われます。
出土したのは土器・石器のみで、残念ながら稲作に使った木製農具などは見つかりませんでした。
土器の大半は、稲作とともに伝わった遠賀川式土器で、あと、縄文系の伊勢湾東海式の土器が見られます。
稲作技術と一式で磨製石器も伝わってきているのですが弥生前期の服部遺跡からは見つかっていません。遠賀川式の土器と縄文系の土器が一緒に見つかっていることや打製石器が使われていることを考え合わせると、服部遺跡には稲作技術を受け入れた縄文人が住んでいたと思われます。
出土したのは土器・石器のみで、残念ながら稲作に使った木製農具などは見つかりませんでした。
服部遺跡の稲作の位置づけ
水田面積
弥生時代の水田跡としては、弥生後期の静岡県登呂遺跡の約7万u、岡山県百間川遺跡の約4万uがありますが、弥生前期では奈良県の中西遺跡の水田跡約2万uと並んで服部遺跡は日本最大級の水田規模となります。滋賀県で見てみると、服部遺跡から北東へ約13kmのところに大中の湖南遺跡があり、約1.5万uの弥生中期前半の水田跡がびわ湖畔に見つかっており、県下で2番目の規模となります。びわ湖畔は初期稲作に適しており、土地の状況に応じた水田開発をしていたようです。
稲作技術
服部遺跡と大中の湖南遺跡の水田跡を比べてみると、地形の違いからくる水田区画の大きさが顕著に違っています。大中の湖南遺跡の水田は砂洲の間の低湿地帯に設けられ、1区画9千u、6千uの2面が見つかっています。大きな用水路が通っており、用水路や2面の水田は矢板や杭で区画分けされています。水田内の畦は見つかっておらず、この大区画の中がさらに小さく区画分けされていたのか、明確には判っていません。大中の湖南遺跡では、住居と水田を区切る溝から多量の土器や多量の木製農具が見つかていて、当時の農耕作業の様子がわかります。
服部遺跡は微高地の間のやや傾斜のある低平野に水田が築かれ、小区画の水田となっています。水路は大中の湖南遺跡のように矢板や杭で補強する必用はなく、土を盛り上げて築いています。
服部遺跡の水田跡が初期的な低湿地帯になく、どちらかというと、治水のむずかしい谷斜面での水田であって、生産性の高い、稲作をする為の水田開発技術の進展が見られます。
このように用排水路を完備し、大畦、小畦を巧みに使い分け水量管理を行っていたことは、稲作初期の技術進歩を具体的に知ることができる貴重な遺跡です。