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 史跡発見
野洲川は近世になっても度々大洪水を起こしており、その対策として行われた放水路工事によって遺跡の存在が判り、工事の進捗により破壊され、完成に伴って発掘部分は消えていきました。
このようにして発見された
野洲川はこれまでにも書いたように度々大洪水を起こしていました。沖積平野の途中で2つの川に別れ北流と南流となっていましたが、これらの川は治水対策で堤防が幾度も積み上げられ、いわゆる天井川となっていました。この川がたびたび大洪水をもたらすため、昭和46年に南北流の間に放水路を造る工事が開始されました。
この辺りは過去の洪水による土砂の推積が著しく、それまでは遺跡の存在は全く知られていなかったのです。
昭和49年夏になり、工事の途中で遺跡があることが判りました。近くの中洲小学校の児童が、野洲川改修工事現場で拾った弥生土器により遺跡の存在が判ったのです。
その当時は、工事は河道部の掘削を行うべく準備中でしたが、遺跡発見を受けて工事を直ちに中止しています。滋賀県教育委員会で橋梁工事現場を調べたところ、多数の土器片が散布しているのが明らかになりました。周辺地域の土器分布調査をしたところ、放水路の河床幅200mで、新しく架ける橋をはさんで上流・下流600mにわたって弥生〜鎌倉期の遺物が大量に散布することが明らかになって遺跡の存在は確実なものとなりました。
この結果、遺跡の規模、性格を調べるための試掘調査を行うこととし、遺跡の名称を所在地の字名をとって「服部遺跡」と命名しました。

当時の新聞(京都新聞10月2日)を引用しますと;
  大見出し:野洲川改修ストップ
  中見出し1:新川河川敷で土器など出土 
  中見出し2:市民の悲願か文化財か 「えらいものが」みんな困惑