野洲川はどんな川
野洲川は、びわ湖の東にそびえる鈴鹿山系に水源を発し、琵琶湖に注ぐ滋賀県最大の川です。この川がびわ湖下流域に広大な扇状地・三角州を作りました。
この川の特徴は次の通りですが、これらの特徴により服部遺跡が形作られ、発見されたのです。
この川の特徴は次の通りですが、これらの特徴により服部遺跡が形作られ、発見されたのです。
野洲川の特徴
【流路が短く勾配がきついため雨水が一気に流れ下る】
野洲川は流域面積387km2、流路延長283kmでびわ湖に流入する滋賀県内最大の川です。
水源の山々(標高700m〜1200m)から標高約85mのびわ湖までの高度差が大きいにもかかわらず流路距離がかなり短く、上流は急峻な川となっています。
日本の大きな河川の中でも最も勾配がきつい川の一つです。このため、ひとたび大雨が降ると雨水は急速にびわ湖まで流れ下り、河川水位が急上昇します。
水源の山々(標高700m〜1200m)から標高約85mのびわ湖までの高度差が大きいにもかかわらず流路距離がかなり短く、上流は急峻な川となっています。
日本の大きな河川の中でも最も勾配がきつい川の一つです。このため、ひとたび大雨が降ると雨水は急速にびわ湖まで流れ下り、河川水位が急上昇します。
主要河川縦断曲線図 出典:辻広志「野洲川の流れと堆積」 |
野洲川縦断曲線図 出典:「野洲川放水路工事誌」近畿地方建設局 |
【年間降雨量が非常に多い水源山系】
野洲川の水源となる鈴鹿山系は年間降雨量が非常に多いところです。
近江盆地は、周囲を1,000mクラスの山地に囲われており、盆地の中央にびわ湖があります。滋賀県は、日本海の若狭湾と太平洋の伊勢湾の距離が約90Kmと短く、くびれた所に位置しています。若狭湾や伊勢湾からの風が流れ込みやすく、伊吹山地と鈴鹿山脈の間が途切れているために、鈴鹿山系にとくに多く雨が降ります。
梅雨時期の降雨量は他の地域と同じですが、冬の雪の量を含めた年間降雨量はとても多く、多雨地帯の大台ケ原などと変わらない量です。
梅雨や台風の時期、春雪解け水が野洲川や他の川を経てびわ湖に注いでいます。
近江盆地は、周囲を1,000mクラスの山地に囲われており、盆地の中央にびわ湖があります。滋賀県は、日本海の若狭湾と太平洋の伊勢湾の距離が約90Kmと短く、くびれた所に位置しています。若狭湾や伊勢湾からの風が流れ込みやすく、伊吹山地と鈴鹿山脈の間が途切れているために、鈴鹿山系にとくに多く雨が降ります。
梅雨時期の降雨量は他の地域と同じですが、冬の雪の量を含めた年間降雨量はとても多く、多雨地帯の大台ケ原などと変わらない量です。
梅雨や台風の時期、春雪解け水が野洲川や他の川を経てびわ湖に注いでいます。
【上流の山地は伐採により林相が貧弱で保水能力が低い】
上流の山地は古い時代に森林が伐採され林相が貧弱となっており、雨水の保水能力が低く、降った雨はすぐに川に流れ込みます。
鈴鹿山系の御在所岳に水源を発する野洲川本流には、鈴鹿山系南端の山岳から流れてくる杣川(そまがわ)が中流で合流しています。杣(そま)とは、神社仏閣などの建材となる木材を供給する森林を指す山を指しており、その材木を流した川が杣川と呼ばれました。正倉院文書によれば石山寺の増改築のとき、甲賀の山から多量の木材を筏(いかだ)に組んで杣川経由で運んでいました。また、比叡山延暦寺の建立のために野洲川の上流域から用材を切り出した記録があります。
甲賀山作所で切り出した木材は、三雲川津(港)で筏に組み、野洲川から運ばれたのです。
多量の木材を切り出し、一たび禿山になり岩が露出すると森の再生は難しく、伐採が繰り返されたこともあって荒廃を招き貧弱な林相となったようです。
鈴鹿山系の御在所岳に水源を発する野洲川本流には、鈴鹿山系南端の山岳から流れてくる杣川(そまがわ)が中流で合流しています。杣(そま)とは、神社仏閣などの建材となる木材を供給する森林を指す山を指しており、その材木を流した川が杣川と呼ばれました。正倉院文書によれば石山寺の増改築のとき、甲賀の山から多量の木材を筏(いかだ)に組んで杣川経由で運んでいました。また、比叡山延暦寺の建立のために野洲川の上流域から用材を切り出した記録があります。
甲賀山作所で切り出した木材は、三雲川津(港)で筏に組み、野洲川から運ばれたのです。
多量の木材を切り出し、一たび禿山になり岩が露出すると森の再生は難しく、伐採が繰り返されたこともあって荒廃を招き貧弱な林相となったようです。
主要河川縦断曲線図 |
金勝山 むき出しの岩石 |
【山地の地質が崩壊しやすく土砂を排出する】
水源の山地・丘陵地帯は風化した花崗岩・堆積岩から形成されており、貧しい林相と相まって、降雨のたびに多量の土砂を流出しています。
守山市から栗東市にかけて、多くの旧河道がみられます。古代では野洲川やその支流の流路は固定していなかったようで、産地から土砂が下流域の広い範囲へ運ばれ、びわ湖畔に広大な扇状地、三角洲を形成しました。
守山市から栗東市にかけて、多くの旧河道がみられます。古代では野洲川やその支流の流路は固定していなかったようで、産地から土砂が下流域の広い範囲へ運ばれ、びわ湖畔に広大な扇状地、三角洲を形成しました。
【下流域の川幅が狭く洪水が起きやすい】
中流域の川幅は広いところで500mもあるのに、下流域の河口から5kmあたりで南流・北流に分流しており、そのあたりの川幅はそれぞれ70m、150mしかなく、多量の雨水が流れてくると水位が急上昇し、洪水となりやすい地形でした。
洪水時の通水能力は川幅の広いところで4,500u/s 程度あるのに対し、南流が350u/s、北流で500u/sと併せても850u/sしかありません。
このような特徴があるために、服部遺跡は何回も大きな洪水に見舞われたのです。
洪水時の通水能力は川幅の広いところで4,500u/s 程度あるのに対し、南流が350u/s、北流で500u/sと併せても850u/sしかありません。
このような特徴があるために、服部遺跡は何回も大きな洪水に見舞われたのです。
【下流域は天井川となっていて決壊すると大洪水となる】
近世になり洪水対策として堤防が築かれるようになりました。しかし、堤防で流路が固定された結果、上流から運ばれた土砂が河床を上昇させ、また氾濫を起こします。
人々は洪水を防ぐ堤防をさらにかさ上げし、氾濫と築堤を繰り返した結果、ますます高い天井川となっていったのです。堤防の高さは高いところで8mから10mにまで及びました。
堤防の歴史を見てみると、立入地区の河川敷の地下数mより、高さ1.5mの室町期の地蔵菩薩像が出土していること、野洲川旧北流の堤防の断面調査をした結果、室町期に築かれた堤防が見つかったことなどから、堤防は室町期から存在していたことが分かります。
野洲川下流域は幅が狭いうえに、おまけに、分流した川は曲がりくねっており、堤防が決壊しやすいという問題があって人々を苦しめていました。
人々は洪水を防ぐ堤防をさらにかさ上げし、氾濫と築堤を繰り返した結果、ますます高い天井川となっていったのです。堤防の高さは高いところで8mから10mにまで及びました。
堤防の歴史を見てみると、立入地区の河川敷の地下数mより、高さ1.5mの室町期の地蔵菩薩像が出土していること、野洲川旧北流の堤防の断面調査をした結果、室町期に築かれた堤防が見つかったことなどから、堤防は室町期から存在していたことが分かります。
野洲川下流域は幅が狭いうえに、おまけに、分流した川は曲がりくねっており、堤防が決壊しやすいという問題があって人々を苦しめていました。
以上のような地形、環境のため野洲川下流域の洪水は多く発生しています。とりわけ、昭和28年の台風13号による人的被害が大きく、家屋の流出・半壊、田畑の冠水も広大な範囲に及び甚大な被害をもたらしました。
これを契機に地元民が中心となって野洲川改修の動きが始まりました。このことが服部遺跡の発見につながっていきます。