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 服部遺跡 > 奈良・平安時代
 奈良・平安時代(掘立柱建物、古代服部郷)
古墳時代後期の終わりごろ、墓地は再び大洪水で埋没してしまいます。その後、この地域には全く集落が形成されなくなります。再び集落が形成されるのは奈良時代中期になってからです。
ここには野洲川下流域の中心となる服部郷が築かれます。
竪穴集落
掘立柱建物群の想像図 (配置は発掘された通り) (絵 中井純子)
遺跡分布
この時期の遺跡の平面図を示します。集落中心地は北側のC区域・D区域になります。

奈良・平安時代の様子 

この時期の遺跡の平面図を示します。
遺跡分布
奈良・平安時代の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)

奈良時代と平安時代の地層はほとんど重なっています。
ただ、奈良時代中期末にはこの地に条里制が施行され、土地区画の方向が変わってきます。奈良・平安時代には多くの掘立柱建物が建てられますが、奈良時代中期までのものと後期以降のものでは建物の方位が違ってきます。
掘立柱建物
奈良時代中期の遺構は、掘立柱建物と小溝、土坑に限られます。
建物はいずれも軸を南北にとり、整然と並んでいます。建物は3間×4間のものを中心に3間×5間、2間×3間の建物があります。規模の大きい建物には一面あるいは二面に廂(ひさし)を持つものも多く、建物としてはしっかりした構造になっています。
竪穴集落
奈良時代中期の建物跡(廂[ひさし]付き)
竪穴集落
平安時代の建物跡

柱穴は方形で、一辺60〜80cmと大きいものが多く、径20〜30cmの柱根を残すものもあり、柱底に礎板や根がらみを残すものが多くあります。 奈良・平安建物
奈良時代後期の建物は、条里制に基づく方位をとるようになります。中期の建物に比べ規模はやや小さくなりますが、条里溝にそって多数検出されています。条里溝と考えられる溝は現在の水田の地割方位と一致し、しかも現水路の下から見つかりました。
平安時代に入ってからもこの集落は存続し、平安時代前期の掘立柱建物は、奈良時代後期のものを建て替えており方位もほぼ同じです。しかし、柱穴は丸形の掘り方に変わり、建物は2間×3間のものが主流となり2間×5間のものも出てきます。
このような約60棟にのぼる奈良・平安時代の建物跡については、後述する出土物なども考えあわせ、服部郷の官衙かと思われます。
奈良時代と平安時代の地層はほとんど重なっていますが、建物の方位、柱穴の形状などから建物の時代を読み解くことができます。
条里溝
発掘調査前に、調査地内を現水田の水路が流れていました。この水路を掘り下げると、明治時代の溝杭が現れ、さらにその下から奈良時代の条里溝が出てきました。
条里溝は、現在の水田の用排水路の下層に見つかっており、いわゆる野洲郡条里に一致しています。
条里溝
見つかった条里溝 
野洲郡の条里地割

野洲郡の条里地割 (高橋美久二氏の復元案)
出土遺物
条里溝からは、多量の土器類のほか、木簡、墨書土器、銅印、銅銭、帯金具、刀子などの遺物が出ています。
これらの遺物は一般農民の集落では出土しないものが多く「服部郷」の役所跡ではないかと推定されています。
その当時、文字を使うのは役人や貴族であり、有力な貴族が関わる荘園か役人のいた役所となります。
【銅印】
服部遺跡から発見された県下でも極めて珍しい銅印です。印面四方の一片が約3.3cmの角印で高さは約4.3cmです。印の文字は「乙貞」と刻んであり、「おとさだ」と」読めます。
条里溝内から出土しており、奈良時代末期遺物と思われます。
【木簡】
条里溝や土坑から5点の木簡が見つかっており、いずれも奈良時代中頃から終わりにかけての物です。
荷札、文章木簡と思われますが、曲物の底板に「馬」と書いたものもあります。「掛口一斗」と書いたものや「口野家五人 米一人」と書いたものなどがあります。
【墨書土器】
土器の中に約100点の墨書土器が見つかっています。「鳥」の文字が多く数10点あり、「寺」「北」「南」「鳥益」「民宰」「蔵」などの文字が読み取れます。
【金属製品】
鋳銅銭は合計80枚が見つかっており、和同開珎、萬年通寶、神功開寶、隆平永宝の4種類があります。
この他、奈良時代末から平安時代前期にかけての鉄製の刀子が3点の刀子、帯の装飾金具が2点出土しています。
奈良・平安時代の出土品
奈良時代から存続していたムラは、平安時代中期後半(10世紀後半)ごろ、おそらく洪水によって廃絶したと見られます。そして、それ以降この地域は水田化されたとみられ、集落を作った跡は見ることができません。
ただ、平安時代中期の遺構面から現在の地表までは、約80〜100cmあるものの、後世に攪乱されていて遺構を見つけることはできませんでした。

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