服部遺跡の特徴
度重なる洪水で埋没・破壊され再生した遺跡
野洲川は近代まで暴れ川と呼ばれており、昔から大洪水で氾濫したり川筋を変えたりしていました。
服部遺跡でも100年から数百年の間隔で大洪水が起き、当時の水田や集落、お墓などを押し流し、数10cmもの土砂で覆われていました。
大洪水の後、しばらくは生活の痕跡はなくなるのですが、しばらくすると再び人々の営みが始まります。
このようにして古い遺構は土砂で保護され、それらが積み重なって複合遺跡となり後世に残されたのです。遺構と洪水の関係を図に示します。
服部遺跡の盛衰 〜洪水との関係 (図:田口一宏)
服部遺跡でも100年から数百年の間隔で大洪水が起き、当時の水田や集落、お墓などを押し流し、数10cmもの土砂で覆われていました。
大洪水の後、しばらくは生活の痕跡はなくなるのですが、しばらくすると再び人々の営みが始まります。
このようにして古い遺構は土砂で保護され、それらが積み重なって複合遺跡となり後世に残されたのです。遺構と洪水の関係を図に示します。
服部遺跡の盛衰 〜洪水との関係 (図:田口一宏)
重層化した複合遺跡
発掘地区設定
放水路工事に先立って服部遺跡の上に橋が架けられました(後の服部大橋)。堤防を築き、河川敷の整備工事をほぼ終わり、河床掘削に入ろうかという時期に服部遺跡が見つかりました。
すでに工事に着手している、堤防や高水敷の下を掘るわけにはいかないので、遺跡発掘はこれから掘削の始まる河床部分にあたる幅約200m、橋の上流250m、下流350mの範囲で行われました。
発掘範囲は大きくはA区域からD区域までの4ブロックに区分し、さらに50m四方のマス目状に地区設定
されました。
遺跡の重複状況
この範囲に合わせて、各時代の遺構を図に示します。各時代にどんな遺構がどの地区で見つかったのかを示しています。また、大洪水が生じた時期も示します。服部遺跡の重複状況 (表:田口一宏)
注:
ここに「大洪水」と書いていますが、川から運ばれた土砂が数10cmも積もるような洪水でした。しかし、現在の我々が想像する洪水とは少し違うようです。
堤防などない時代、増水した川から辺り一面にあふれ出るような情況で、堤防が破壊して鉄砲水のような激流が流れるのとは、違う様相だったようです。
ただ、弥生中期末の洪水は遺構をえぐり取るような未曾有の洪水でした。
堤防などない時代、増水した川から辺り一面にあふれ出るような情況で、堤防が破壊して鉄砲水のような激流が流れるのとは、違う様相だったようです。
ただ、弥生中期末の洪水は遺構をえぐり取るような未曾有の洪水でした。
初期稲作の様子が判る広大な水田
日本で水田稲作が始まって間もないころ、弥生前期の広大な水田跡が見つかっています。
遺跡の上流域の微傾地全面に畦(あぜ)で仕切られた小区画水田が整然と並んでいます。見つかっている範囲で260面 約2万uの広さがあります。後世の河や集落によって壊された水田を考慮すると、その数倍の広さがあったと推定されます。
水田の様子を見てみると、給排水や土地の傾斜に応じた畦つくりなど工夫が凝らされ、すでに体系的な技術を習得している様子がうかがえます。
遺跡の上流域の微傾地全面に畦(あぜ)で仕切られた小区画水田が整然と並んでいます。見つかっている範囲で260面 約2万uの広さがあります。後世の河や集落によって壊された水田を考慮すると、その数倍の広さがあったと推定されます。
水田の様子を見てみると、給排水や土地の傾斜に応じた畦つくりなど工夫が凝らされ、すでに体系的な技術を習得している様子がうかがえます。
水田跡の全貌 |
小区画水田とあぜ道 |
弥生・古墳時代の墓は当時の墓制のタイムカプセル
弥生時代中期には360基もの方形周溝墓が築かれます。古墳時代後期には27基の古墳が築かれます。
後世に墳丘は削り取られてしまいますが、溝から出てくる供献遺物や墳丘や溝の形態は非常に変化に富んでいます。これらの状況を分析することにより、当時の人々の葬送儀式や墓制に関する考え方が読み取れるタイムカプセルのような遺跡です。
後世に墳丘は削り取られてしまいますが、溝から出てくる供献遺物や墳丘や溝の形態は非常に変化に富んでいます。これらの状況を分析することにより、当時の人々の葬送儀式や墓制に関する考え方が読み取れるタイムカプセルのような遺跡です。
弥生時代中期の方形周溝墓群 (中央は弥生中期末の洪水より破壊) |
古墳時代後期の古墳群 |
野洲川下流域の繁栄の基礎を作った遺跡――その意義
考古学的意義
服部遺跡は、広大な面積を対象としたことから、遺跡の構造を一望でき、また、複合遺跡であったため次代の流れを追うことのできる貴重な調査となりました。
各地の遺跡分布地図を見たときに、多くの遺跡の存在が記されています。それらは、土器片が見つかっただけの場所であったり、数棟の住居跡であったり、集落とお墓が見つかったり、といろいろなケースがあります。「ここに人が居た」という意味ではどれも貴重な遺跡ですが、考古学的には、当時の生活や社会をうかがうことのできる広範囲な調査ができたことが重要です。そこから歴史を塗り替える事実がたくさん見つかりました。
また、重要な遺構が見つかっている遺跡でも、一時期だけ(数10年〜100年程度)栄えた遺跡が結構多いのです。同じ場所で、数100年〜1000年と継続して時代が重なって見つかる遺跡は多くありません。例え、同じ場所で複数の時代の遺構が見つかった場合でも、遺構が密に重なっておれば、時代を分離して社会生活を読み解くことが難しくなります。
このような観点から服部遺跡を眺めてみると、重要な遺構が、長い時代にわたって見つかっています。
当時、ここにいた人たちにとっては大洪水に見舞われて不幸なことだったのでしょうが、考古学的には、縄文から平安までの時代の遺構が洪水によって運ばれた数10cmの土砂によってサンドイッチ状に覆われ、タイムカプセルように残された遺構を分離した層として発掘できるのです。すなわち、同じ場所で複数の社会生活面を分離して観察・調査し、その変遷をたどることができる大規模な「定点観測遺跡」と言えるでしょう。
各地の遺跡分布地図を見たときに、多くの遺跡の存在が記されています。それらは、土器片が見つかっただけの場所であったり、数棟の住居跡であったり、集落とお墓が見つかったり、といろいろなケースがあります。「ここに人が居た」という意味ではどれも貴重な遺跡ですが、考古学的には、当時の生活や社会をうかがうことのできる広範囲な調査ができたことが重要です。そこから歴史を塗り替える事実がたくさん見つかりました。
また、重要な遺構が見つかっている遺跡でも、一時期だけ(数10年〜100年程度)栄えた遺跡が結構多いのです。同じ場所で、数100年〜1000年と継続して時代が重なって見つかる遺跡は多くありません。例え、同じ場所で複数の時代の遺構が見つかった場合でも、遺構が密に重なっておれば、時代を分離して社会生活を読み解くことが難しくなります。
このような観点から服部遺跡を眺めてみると、重要な遺構が、長い時代にわたって見つかっています。
当時、ここにいた人たちにとっては大洪水に見舞われて不幸なことだったのでしょうが、考古学的には、縄文から平安までの時代の遺構が洪水によって運ばれた数10cmの土砂によってサンドイッチ状に覆われ、タイムカプセルように残された遺構を分離した層として発掘できるのです。すなわち、同じ場所で複数の社会生活面を分離して観察・調査し、その変遷をたどることができる大規模な「定点観測遺跡」と言えるでしょう。
歴史的意義
弥生時代後期の野洲川下流域は、伊勢遺跡に象徴されるように隆盛を極め当時の日本の要であったと考えられていますが、その繁栄の基礎を築いたのが服部遺跡です。
弥生時代後期、服部遺跡では多数の竪穴住居群が営まれていた少しあと、ここから南へ約7kmのところに多数の大型祭殿や宮室が整然と立ち並ぶ伊勢遺跡が栄えていました。 この時代、野洲川流域は近畿・東海・西日本・四国などの銅鐸祭祀圏のクニグニからなる連合国の中枢で、伊勢遺跡はそれらのクニグニの祭祀の場であったと考えられています。弥生後期、倭国のクニグニが戦乱状況に陥り、卑弥呼を共立して争いを収めた・・・と魏志倭人伝に描かれていますが、その共立の場こそ伊勢遺跡であったと思われます。
それは弥生時代中期にさかのぼります。服部遺跡では膨大な数の方形周溝墓群が築かれていた時期、南へ約4kmのところに大きな環濠をもつ下之郷遺跡が栄えていました。ここは多くの集落を統括する中心的な拠点集落で、強い経済力を有する広域交流の中心地と考えられます。その力を背景に後期の伊勢遺跡につながっていくのです。
その経済力の基盤を作ったのが服部遺跡で発見された大規模水田から判るように、当時の基幹産業である米作の一大拠点だったのです。人々も集まってきて、多くのお米と、交通の要所という地の利を生かして、弥生時代を通してこの地が栄えていきます。
弥生時代後期、服部遺跡では多数の竪穴住居群が営まれていた少しあと、ここから南へ約7kmのところに多数の大型祭殿や宮室が整然と立ち並ぶ伊勢遺跡が栄えていました。 この時代、野洲川流域は近畿・東海・西日本・四国などの銅鐸祭祀圏のクニグニからなる連合国の中枢で、伊勢遺跡はそれらのクニグニの祭祀の場であったと考えられています。弥生後期、倭国のクニグニが戦乱状況に陥り、卑弥呼を共立して争いを収めた・・・と魏志倭人伝に描かれていますが、その共立の場こそ伊勢遺跡であったと思われます。
伊勢遺跡とその歴史的意義については、姉妹ホームページ「伊勢遺跡」を参照してください
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なぜ、野洲川下流域にこのような力を持った遺跡が出現したのでしょうか?
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それは弥生時代中期にさかのぼります。服部遺跡では膨大な数の方形周溝墓群が築かれていた時期、南へ約4kmのところに大きな環濠をもつ下之郷遺跡が栄えていました。ここは多くの集落を統括する中心的な拠点集落で、強い経済力を有する広域交流の中心地と考えられます。その力を背景に後期の伊勢遺跡につながっていくのです。
下之郷遺跡とその歴史的意義については、姉妹ホームページ「下之郷遺跡」を参照してください
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では、なぜ下之郷遺跡が強い経済力を持つようになったのでしょうか?
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その経済力の基盤を作ったのが服部遺跡で発見された大規模水田から判るように、当時の基幹産業である米作の一大拠点だったのです。人々も集まってきて、多くのお米と、交通の要所という地の利を生かして、弥生時代を通してこの地が栄えていきます。