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 服部遺跡 > 服部遺跡
 服部遺跡はどんな遺跡
野洲川はどんな川
野洲川は、びわ湖の東にそびえる鈴鹿山系に水源を発し、琵琶湖に注ぐ滋賀県最大の川です。この川がびわ湖下流域に広大な扇状地・三角州を作りました。
この川の特徴は次の通りですが、これらの特徴により服部遺跡が形作られ、発見されたのです。
【川、水源の特徴】
  1. 水源の鈴鹿山系の降雨量が非常に多い
  2. 流路が短く勾配がきついため雨水が一気に流れ下る
  3. 山地の地質が崩壊しやすく土砂を排出する
  4. 下流域の川幅が狭く洪水が起きやすい
【人との関わりでの特徴】
  1. 上流の山地は伐採により林相が貧弱で保水能力が低い
  2. 下流域は天井川となっていて決壊すると大洪水となる
    近世になり洪水対策として堤防が築かれるようになりました。しかし、堤防で流路が固定された結果、上流から運ばれた土砂が河床を上昇させ、また氾濫を起こします。
    人々は洪水を防ぐ堤防をさらにかさ上げし、氾濫と築堤を繰り返した結果、ますます高い天井川となっていったのです。
天井川
文献記録によれば、天正6年(1537)から野洲川放水路が完成する昭和54年(1979)までに、確認できる洪水は46件にのぼっており、約10年に一度の割合となっています。
とりわけ昭和28年の台風13号による被害は大きく、堤防が195mにわたって決壊し人的被害も大きく、家屋の流出・半壊、田畑の冠水も広大な範囲に及び甚大な被害をもたらしました。
これを契機に地元民が中心となって野洲川改修の動きが始まりました。このことが服部遺跡の発見につながっていきます。
 ※ 野洲川の特徴、洪水の歴史の詳細は当HPの「野洲川放水路」をご覧ください。
服部遺跡が見つかったところ
洪水対策として、天井川を廃止し、野洲川の北流と南流の間に幅の広い放水路を開削することになりました。
堤防を築き、新しく架けられる服部大橋の橋脚工事の掘削中、地中深くから弥生時代の遺物が出てきました。遺跡の中心部は、野洲川南北流にはさまれた中洲にあり微高地となっていたため、にこれまで遺跡があるとは思われていなかった所でした。
放水路工事
野洲川と放水路、遺跡の見つかった場所
出典:野洲川放水路:近畿地方建設局 を一部改変

「歴史の流れを封じ込めた複合遺跡」のところに書いたように、河床に当たる部分、幅約200m、長さ600mにわたって、縄文時代から平安時代にまたがる複合的な遺跡が見つかったのです。 すでに工事が行われていた堤防下や高水敷や周辺の農地の下は発掘できなかったのですが、この部分にも遺跡が広がっていることは間違いありません。   注:高水敷とは、水量が河床幅をオーバーしたときに、増水をうける部分
放水路工事とのせめぎあいで苦労した発掘調査
たびたび野洲川の氾濫に悩まされてきたこの流域の人々にとって放水路工事は長年の念願でした。
弥生時代の土器の破片が見つかったことから、遺構の確認が必要ということになりました。
S49年11月から5か月にわたる遺跡の範囲調査が行われ、続いて1年間の期限付きでの発掘調査が行われたのです。S51年3月末、1年間の調査期限がきて発掘調査を中断することになったとき、調査はまだ半分も進んでおらず、文化財の調査が大切か洪水対策工事優先かでせめぎあいが起きました。
国をも巻き込む議論になったのですが、結果的には4か月の延長ということになりました。 工事と発掘
その4か月が経過したとき、終了間際にさらに下の層から大規模なお墓の遺構が見つかったのです。
さてどうするか?
守山市・滋賀県のみならず、全国の考古学者、文化庁、建設省を巻き込み、訴訟にまで発展した騒動となったのです。結果的には、暫定放水路を作り工事を進めながら発掘調査を行うというやり方で1年間の調査が認められました。
発掘調査を行っている横で河川敷の工事や河床へのテトラポットの設置が行われ、発掘調査で掘った土を域外に運び出す作業を行うなど、期限を区切られた環境下での苦労の多い発掘調査作業だったことでしょう。
この結果、当時としては類例の見ない大規模な複合遺跡の全貌が明らかになりました。
服部遺跡の範囲
工事と発掘 このホームページで紹介している野洲川放水路にあたる部分以外にも服部遺跡は広がっています。
発掘した場所から上流側数100mのところに新庄遺跡がありますが、江戸時代に新庄銅鐸が見つかっています。これは非常に古い形の銅鐸で、銅鐸祭祀の変遷とそこから当時の政治権力の動きを読み解くキーとなるものです。
工事現場から土器の破片が見つかったとき、その新庄銅鐸の発見地に近いこともあって、遺跡発掘調査の重要性が大きく叫ばれました。
昭和49年に服部遺跡が発見されたころ、守山市では本格的な発掘調査は始まったばかりで、市内にどのような遺跡があるのかという「遺跡分布の確認調査」はまだ十分ではありませんでした。
服部遺跡の発見を契機に市内の遺跡分布の調査を精力的に始め、多くの遺跡の存在が判ってきたのです。
その結果、服部遺跡の範囲は図に示すように、実際に発掘した範囲外にも広がっていることが判明しています。この範囲は地表面の調査なので、地下にどれだけの遺構・遺物が眠っているのかは判っていません。後で述べますが、方形周溝墓群の規模から考えて、とても大きな集落がこの辺りにあったと思われます。
服部遺跡の範囲 出典:守山市史(考古編)

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