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 服部遺跡 > 弥生時代後初期
 弥生時代後期(竪穴集落、環濠集落)
弥生時代中期末に未曾有の大洪水に見舞われます。集落と方形周溝墓群は埋没するだけではなく、この区域の南西側と南東側は新しくできた河道によって深く抉(えぐ)られます。その後、新しい竪穴集落が築かれますが再び洪水で埋没してしまい、新たに環濠集落が造営されます。
水田
竪穴住居群の想像図 (配置は発掘された通り) (絵 中井純子)
旧河道
弥生中期末頃の大洪水で、この区域の様子が変わります。
遺跡の南西側AB区域に、幅60m以上、深さ4m前後の大きな川(河道A)が流れます。同時に南東側AB区域では、幅50m以上、深さ3mを超える大きな川(河道B)でした。また遺跡の中央部が大きく抉って幅約20mの大きな川(河道C)が流れました。
水田跡や方形周溝墓群など、当時の地下にあった、それまでの遺構を抉っていきます。 その後、河道Cは比較的早く埋没していき、古墳時代初頭には埋まってしまいます。
一方、河道A,Bは古墳時代前期末まで流れがあったようで、古墳時代、ここに住んだ人々は、河道A、Bを利用していたようです。部分的に川の掘削を行ったり護岸工事をしたりしていました。水を求めて川に降りるための梯子が残されていました。
河道
大洪水でえぐられできた河道A・B・C
河道
河道Cの断面図
遺跡分布
この時期の遺跡の平面図を示します。遺跡分布としては、弥生後期中頃の洪水をはさんで、2つの時期(第1、第2時期)に分けて示しています。

弥生後期前半の様子 (第1時期)

この時期の遺跡の平面図を示します。
遺跡分布
弥生後期前半の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)

弥生中期末の大洪水で、集落と方形周溝墓群が壊されます。とは言っても墳丘を持つ大きな墓のため、周溝は土砂で覆われても墳丘部分は崩れながらも残されていたのでしょう、方形周溝墓の空白部分であったB地区の2つの川の間に大規模な竪穴住居群が築かれました。

弥生後期後半の様子 (第2時期)

この時期の遺跡の平面図を示します。
遺跡分布
弥生後期後半の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)

弥生後期の中頃に起きた洪水で、B地区の竪穴住居群は埋没してしまい、その後、B-C地区にかけて環濠集落が築かれます。
弥生後期前半の集落

集落の構造

弥生中期の大洪水でできた河道Aと河道Bにはさまれた個所に新しい竪穴集落が形成されます。不思議なことに、C区域に1戸だけ竪穴住居が建てられます。この場所は、弥生中期に方形周溝墓が造営されたとき、そこだけが空白場所になっていた場所です。墓域の管理事務所的な建物の様に感じれらますが、時代差があり墓域とこの竪穴住居は直接的な関連は無いようです。
竪穴集落
竪穴集落の配置
竪穴集落
竪穴集落
建物と大溝、河道
もう一つ特徴的なことは、河道に沿って、B区域の集落の西側にとても長い溝が作られていることです。幅が約2m、深さは約1m、溝の形状はU字形です。この溝は、2戸の竪穴住居をつぶして掘られており、集落形成後に作られています。弥生時代の集落の特徴として、環濠や濠、大溝がありますが、河道に沿って作られたこの大溝の目的は判っていません。
河道が竪穴住居を削り取っている個所があります。中期末の洪水で形成された河道はもう少し狭かったけれど、後期中頃の洪水で河岸が削られ拡張したものと思われます。

竪穴住居

住居は直径9〜10mの円形竪穴住居で4本柱を持ち中央に炉穴を備えているものが多く、間仕切りを持つものもありました。特に大きな竪穴住居は見当たらず、平均45u程の広さです。
竪穴住居
間仕切りのある竪穴住居
円形竪穴住居
円形竪穴住居
方形竪穴住居
方形竪穴住居
弥生中期末から後期の建物は、円形が約48%、隅丸方形が15%、方形が10%、不明11%となっており、やはり円形が多いようです。
床面積は、円形竪穴で20u〜60u、平均約45uで、方形、隅丸方形竪穴で10u〜60u、平均は丸形より狭く25uくらいです。中期前半の竪穴に比べ、円形では倍以上とかなり広くなっています。
建物の柱穴の底に礎板を敷いたものがいくつか見つかっています。何度も洪水に見舞われて地盤が軟弱だったようで、柱が沈み込むのを防ぐためだと考えられます。
竪穴住居の礎版
礎板を残す竪穴住居
残されていた柱根
残されていた柱根

環濠集落(後期後半)
弥生後期初頭の集落が洪水により廃絶したのち、後期後半に、堆積土が比較的安定した上流域(南半)を中心に環濠集落が形成されます。この環濠は、径150mのほぼ円形にめぐるもので、濠幅4m以上、深さ2.8m以上という大規模なものでした。濠は鋭いV字形となっています。
環濠全景
環濠全景
環濠
環濠の中
環濠断面
環濠の断面

中期の服部遺跡でも濠というより溝が集落を通っており、環状なのか直線状なのか判断がつきませんが、後期になって本格的な環濠集落が誕生したのです。
近畿地方では弥生中期の終焉とともに環濠集落がなくなっていき、野洲川下流域も同様なのですが、服部遺跡に限って後期中頃に立派な環濠が築かれるのです。幅も広く深くて鋭いV次断面の濠で、防御用の環濠を思わせます。環濠を築く目的は何であったのか気になるところです。
ただ環濠内は本来やや高かった可能性があり、後世に削平されてしまったのか竪穴住居祉はほとんどありませんでした。
集落からの出土遺物

一般的な出土物

住居跡や土坑から見つかる土器は細かく割れたものが多く、環濠をはじめとする溝から見つかる土器は完形に近いものや割れの少ないものが含まれる傾向にあります。
服部遺跡の環濠からは、非常に多くの土器が出てきたので、近江地域の弥生土器の年代分析の基礎データ作りに役立ったようです。
石製品としては、石鏃や石剣が見つかっています。石剣は折れたものが多いのですが、完全な形状のものも見つかっています。
後期土器
弥生後期の壺
後期土器
弥生後期の甕
石鏃
石鏃
石剣
石剣

特殊な出土物

特殊な遺物としては、朱塗り飾り櫛や銅鏃、銅鐸の鋳型などが出ています。また、手焙り型土器が数多く出土しています。これらの遺物から服部遺跡が特別な遺跡であることがうかがわれます。
【朱塗りの櫛】
服部遺跡の弥生時代の遺構から発見されました。表面は「朱塗り」で赤くなっています。
上部は勾玉を2個背中合わせにして結び合わせた形で透かし彫になっています。その下に四角形の基部を作り渦巻き状の線刻が施されており、欠損していますが、歯を五本削り出しています。当時の習俗を知る上で貴重な資料と言えます。
【銅鏃】
服部遺跡から銅製の鏃(ぞく:矢じり)が5本見つかっています。 古墳時代の近江の古墳から副葬品として銅族がまとまって出土する例がありますが、弥生時代の銅鏃は極めて少なく、服部遺跡の5本の出土は注目に値します。 上にも述べましたが、銅製品の鋳型が出土していることと合わせて考えると、服部遺跡は銅を扱う工房があったのかも知れません。
朱色の飾り櫛
朱色の飾り櫛
銅鏃
銅鏃
銅鐸の鋳型
銅鐸の鋳型
【銅鐸の鋳型】
環濠の中から、弥生後期の土器とともに銅鐸の土製鋳型が出てきました。
長さは約38cm、幅は12cmでわずかに反っており、一端が少し短く作られています。裏面には取手が付いていたようです。
小型の銅鐸の鋳造(ちゅうぞう)には石製の鋳型を使いましたが、中型〜大型になると土製の鋳型が使われるようになりました。鋳型は熱で変色した痕跡があり、銅鐸を制作した後に取り外した鋳型と思われます。
【手焙型土器】
弥生時代後期に、受口状口縁を持つ近江型土器の鉢の上に覆(おおい:フード)が付いた、後世の手焙り用火鉢に似た土器が出現します。その形状に由来して手焙形土器と呼ばれています。
特異な形で出土数も少ないことから、用途が何か分からないのですが、覆いの内面に煤が付いているものが出土しており、何かを燃やして使うことがあることが分かります。祭祀で用いられたとも考えられます。
野洲川下流域のいろいろな遺跡で出土していますが、服部遺跡の環濠や河道からは20個ほど出ています。他の遺跡からは1〜3個程度の出土で、服部遺跡の出土数は異例で、ここが特別な遺跡であったことを示すものでしょう。
【朱塗りの盾】
守山市の遺跡からは多くの木盾が出ています。服部遺跡でも、弥生後期後半の環濠と河道から、多数の小さな穴が整然とあけられた朱塗りの盾が2点出土しています。この小さな穴は、糸を通して盾を縛って矢が当たっても割れないようにするとともに装飾の役割も果たしています。
手焙り型土器
手焙り型土器
朱塗りの盾
朱塗りの盾

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