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 野洲川放水路 > 洪水の歴史
 洪水の歴史
文献記録によれば、天正6年(1537)から野洲川放水路が完成する昭和54年(1979)までに、確認できる洪水は46件にのぼっており、約10年に一度の割合となっています。
とりわけ昭和28年の台風13号による被害は大きく、堤防が195mにわたって決壊し人的被害も大きく、家屋の流出・半壊、田畑の冠水も広大な範囲に及び甚大な被害をもたらしました。
これを契機に地元民が中心となって野洲川改修の動きが始まりました。このことが服部遺跡の発見につながっていきます。
大地に刻まれた洪水の歴史
まだ人々が堤防を築く前、野洲川は低い自然堤防を作って流れていました。その河道は固定されておらず、大きな洪水が生じるたびに流路を変えていたと考えられます。
その頃の洪水は自然堤防を溢れるように乗り越え、洪水堆積物が広範囲に薄く積もるだけのことでした。このようにして出来た旧河道の痕跡が至る所に残っています。
したがって、服部遺跡も近世まであった北流と南流と同じ位置と規模の2つの流れにはさまれていたのではなく、流路はもう少しフレキシブルに動いていたと思われます。地層から見る限り、服部遺跡は湖岸に面していたと考えられます。野洲川が運ぶ砂礫がびわ湖に押し出されて積り、湖岸が西側に広がって行ったのです。
この傾向は、人々が堤防を築き、河道が固定化して顕著になっていきます。地図からも判るように、北流・南流が運ぶ砂礫で見事な三日月形の湖岸線が出来上がっています。
近世の洪水の記録
人間が堤防を築き流れが固定化したことにより、砂礫の堆積が狭い範囲に集中し、一気に天井川化が進んだことになります。
野洲川の天井川化は洪水による堆積だけではなく、地震による噴砂によっても急激に進行した痕跡が見られます。
寛文二年(1662年)の花折断層による地震(マグニチュード7.7前後)によると思われる噴砂後の状況から、2〜3世紀の間に約9mの天井川化が進んだと考えらえています。
洪水が起きたとき、天井川の堤防の弱いところが崩れると一気に水が流れ込みます。流れの激しい濁流となって家屋や田畑を飲み込んでいき、大きな災害を生じることになったのです。

洪水の記録

冒頭にも書いたように、天正6年(1537)から野洲川放水路が完成する昭和54年(1979)までに、確認できる洪水は46件にのぼっており、約10年に一度の割合となっています。
昭和になってからでも15件もの洪水が起きて被害を及ぼしています。過去の10年に一度の洪水に比べると昭和の頻度が高くなっています。
このことは、昭和以降の頻度が上がっていると見るのか、過去においてどこまで記録され残されているか・・ということがある一方、天井川化が進み、居住範囲が広くなっているために被害が大きくなっているとも言えるでしょう。
この表にはありませんが、明治29年、大正2年、大正3年にも死者の出る大きな洪水が起きています。

洪水の状況 出典:「野洲川放水路 工事誌」 発行:近畿地方建設局

【明治29年の洪水】
明治29年9月、台風による洪水が生じ、死者7人、流出家屋78戸の被害が生じていました。
【大正2年の洪水】
大正2年10月、台風による洪水が生じ、死者20人、流出家屋21戸、浸水300町の被害が生じていました。
【昭和28年の洪水】
昭和28年9月、台風13号による洪水が生じ、死者4人、重傷170名、流出・半壊家屋1727戸、冠水300町という甚大な被害が生じていました。

被害の発生状況は
昭和28年 9月25日 午後11時終頃、中主町大字六条地先の野洲川北流右岸堤防195m決壊、住家683戸、非住家1030戸が流出あるいは半壊、死者3名、重傷170名、田畑の流出及び埋没523町歩、冠水300町歩、また、同時刻頃、今浜下出鼻出葭135m決壊、家屋流出11戸、納屋8戸、田畑の流出および土砂流入埋没32町歩
翌26日 午後0時20分笠原井関210m決壊、家屋流出3戸、死者1名
この災害がきっかけで野洲川の抜本的な洪水対策を求める住民の声が大きくなりました。
【昭和40年の洪水】
昭和40年9月、台風24号による洪水が生じ、死者1人、家屋全半壊411戸、浸水1522戸の被害が生じていました。
【その後の洪水】
昭和47年7月 前線性の大雨で南流下流で堤防が決壊し、田畑が冠水する洪水を生じたが、幸いにも人的被害はありませんでした。
野洲川放水路の完成を受けて、その後の洪水はなくなったのです。


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