ヘッダー画像
 服部遺跡 > 弥生時代中期
 弥生時代中期(方形周溝墓と集落)
弥生前期末に、水田跡と集落が大洪水で埋もれ、土砂が50cm〜100cmほど積みあがりました。この土砂が乾燥して荒れ地となると、ここは広大な墓地となりました。
見つかった方形周溝墓は約360基になり、日本で最大規模となります。
水田
方形周溝墓と祭祀の想像図 (絵 中井純子)
遺跡分布
弥生時代中期を通じて方形周溝墓が築かれるのですが、中期中ごろに洪水に見舞われ、一部、周溝墓が埋没します。しかし、その後しばらくして、中期後半ごろから再び方形周溝墓が築かれます。
中期末には、再び大洪水が起きて土砂で覆われてしまします。
遺跡分布としては、中期中ごろの洪水をはさんで、2つの時期(第1、第2時期)に分けて示しています。

中期前半から中頃の様子 (第1時期)

この時期の遺跡の平面図を示します。
遺跡分布
弥生中期前半〜中頃の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)

服部遺跡の中央部から北側にかけて方形周溝墓が築かれます。この時期、この辺りには集落がなく、人々は離れた場所に住んでいたようです。ここが墓域と定められ、近隣の集落から墓を造りに来たようです。
墓域の中央を横切っているのは、弥生中期末頃に起きた大洪水により抉(えぐ)られた河道の跡です。
相当激しい流れを伴う洪水のようで、多くの墓が削り取られました。

中期後半の様子 (第2時期)

この時期の遺跡の平面図を示します。
遺跡分布
弥生中期後半の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)

弥生中期の洪水で方形周溝墓は埋没しますが、完全に破壊してしまうほどの大きな被害ではなかったのでしょう、それまで周溝墓があった場所を避けて、集落や新しい方形周溝墓が築かれます。
A区域の東西側にはもっと多くの周溝墓があったと思われますが、中期末の大洪水で削り取られてしまいました。
方形周溝墓とは

弥生時代のお墓

縄文時代は、地面に穴を掘り遺体を住居のそばに埋葬する土坑墓(どこうぼ)が一般的でした。
弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となります。埋葬形式は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なります。北部九州地方では、甕(かめ)・壺を棺とする甕棺墓(かめかんぼ)が顕著に見られます。近畿地方や伊勢湾沿岸部では木棺墓(もっかんぼ)が主流となりますが、土壙墓(どこうぼ:大きな穴を掘って埋める)も見られます。
近畿地方では弥生前期末に、木棺を方形の墳丘で埋め、周囲に溝を掘る方形周溝墓が登場しました。
方形周溝墓は中期以降、全国に波及して弥生時代の中心的な墓制になっていきます。また、社会階層の分化に伴い、身分によって墓の規模や副葬品などに差が出てきます。

方形周溝墓の構造

方形周溝墓の構造 野洲川下流域では、広い範囲で方形周溝墓群が見つかっています。方形周溝墓とは、周囲を溝で四角く囲い、その中に低い墳丘を築いたお墓で、その内部に木棺を納めます。
規模としては5〜15mくらいの大きさのものが多いようです。溝の幅は1〜5mくらいのお椀型やV字形で、深さもまちまちです。
方形周溝墓の墳丘は、後世に開削されてしまい、実際に見つかるお墓はほとんどが溝と墳丘の基礎部分しか残されていません。
残されている溝から、墓の造営の仕方や墓の規模の差が生じていく様が読み取れます。 方形周溝墓はだんだん大きくなり、やがて前方後方墳へとつながっていきます。

服部遺跡の方形周溝墓

方形周溝墓は、弥生時代中期中ごろの洪水で一時的に中断するものの、弥生中期を通じて、約8万uの範囲に360基もの方形周溝墓が約300年間にわたって築造されました。これらのお墓も、中期末の大洪水で埋没してしまいます。
遺構としては、弥生中期の末頃には墓の中央部と西側に大きな河道ができて墓が破壊されます。また、古墳時代前期にも墓域の一部が河道で壊されますが、360基のお墓が残されました。
CD-周溝墓
CD区域方形周溝墓の全貌
D周溝墓想像図
D区域方形周溝墓の図
(絵 中井純子)

方形周溝墓は高水敷や堤防の下などの調査範囲外にも広がっていたと考えられ、総数は500基を優に超えると思われます。ここでは、木棺墓や近畿地方の遺跡で見られる土壙墓は見つかっておらず、方形周溝墓にこだわったようです。
どんな墓制だったのか

墓の変遷

弥生前期の終わり頃、水田と集落が洪水により埋没した後、しばらくたった中期初頭にお墓が作られ始めます。元々、水田に適した土地であったものが、洪水による土砂に覆われて、水田には適しない荒れ地になっていました。大きなお墓を作るのに適した空き地と判断したのでしょう。
最初は、微高地の南半分(BC区域)の一部に、周溝墓が1〜2基単位で数か所に作られます。 墓の規模は、一辺が15〜20m前後の中型・大型のものばかりです。
中期半ばになると、すでに築造されている周溝墓を核とし、それに連結したり、周囲を取り囲むようにして新しいお墓が作られるようになりました。この時期の周溝墓は大部分が1辺10m前後の小型のものです。
墓の向きは必ずしも統一されていませんが、小さなグループとしては一定の方向に揃っています。血縁なのか集落としてのまとまりなのか、グループとして同じ場所に墓を築いたようです。
その後、大きな洪水に見舞われ、これまで拡大していた墓域の大半が埋没してしまいます。 この後、墓の築造は一度中断したものの、再び隣接地に周溝墓が作られるようになり、中期を通して大規模な墓域が形成されます。

墓の大きさ

お墓は大きいもので、一辺20m程度の長方形や方形の台状部を持ち、幅4m〜5mの周溝をめぐらし、小さなものでは、一辺5m程度の台状部に幅1m程度の周溝をめぐらされています。 周溝の深さは1m〜2mで、形状は浅い皿状のものから鋭いV字形のものなどがあります。 台状部の盛り土は、後世に削平されてほとんど無くなっていますが、少し残された盛り土を見ると、溝を掘った土を盛り上げていたようです。盛土は数cm単位で丁寧にたたき固めてありました。 墓壙は盛土の上から掘り込んでおり、埋葬用主体部は盛土内に作られています。ただ、後世の削平により、墓壙が認められるのは全体の2割の76基でした。 見つかった356基の周溝墓のうち、
台形部のサイズは;
5m以下5m〜10m 10m〜14m14m以上
17%56%22%4%
墓の並び
大きな墓だけが固まって存在しているわけではなく、各グループに散在しています。 グループの端にあたる個所の墓は相対的に小さく、空きスペースが少なくなってくると、スペースの形状に合わせて墓を作るようです。 墓の大小の差こそあれ、中期を通じて同じような構造の墓を作り続けますが、洪水の後、新しく作られるお墓の一つは、規模も大きく円形の周溝をもっており、これまでの周溝墓とは形状が違っています。 何らかの社会的な変化があったのかも知れません。

埋葬人数

墓壙 埋葬用主体部(墓壙)が見つかったのは76基ですが、そのほとんど(57基)が単棺で、主体部を2つもつものが8基、3個持つものが10基、4個持つものが1基でした。
近畿中心部の方形周溝墓は、家族単位で埋葬された・・と言われていますが、服部遺跡では単数埋葬が一般的のようです。
複数埋葬は、同じ家族で同時に亡くなったときに、複葬したのでしょうか? 主体部が2つある周溝墓では、一方がかなり小さいものが見られます。親と子供が一緒に埋葬されたのかもしれません。
平均的な方形周溝墓でも、溝部も含めると150u程度の大きな墓になります。小さな庭付きの戸建ての家くらいの大きさです。
お墓を増築するための労力と時間は相当なものです。 服部遺跡で個人用の方形周溝墓が多く作られていたということは、この地が豊かで人も多く、平和に暮らしていた証拠ではないでしょうか?

木棺

水田跡 主体部には遺体を入れた木棺を収めたと考えられるが、後世の削平により台状部ともども木棺は破壊されたようです。ただ、1基だけ主体部が深く掘り下げられ、木棺もほぼ完全な状態で残されていました。このほか、墳丘部分から木棺の小破片が出土したものが数例あり、主体部には木棺が収められていたようです。
ただ、形状的に見て木棺が元々無かったような墓も、あり一概に木棺埋納とは言えないようです。
木棺が見つかったのは、最大級の周溝墓の一つで、棺は長さ約2m、幅約1mもありました。
構造は、底板を置いてその外側に側板を立て、木口板を底板の上に置いて側板に組み込まれていました。 その上に蓋板を置いて棺を完成させ、上から土を被せています。 木棺の材質はコウヤマキで、底板の厚みは最大で15cmもある立派なものです。底板は大人6人かかりでようやく持ち上げられるほどの重さでした。
棺の中には死者への副葬品は全くなく、埋葬された人の骨も見つかりませんでした。底板にはわずかに赤い朱が見られました。
巨大なマキの木を伐採し、それを板にして木棺を作り、大きな周溝墓を構築する力のあった人物のお墓だったようです。

供献土器

削平された台状部からは何も見つからなかったが、周溝から完全な形に近い土器が多く見つかっています。土器以外のものは出土していません。これらの土器は、埋葬祭祀の時に用い、供献品として周溝の外か主体部の上に置かれたものでしょう。
土器の多くは壺で、次いで多いのは甕でした。高坏や水差しも少数含まれており、総数は223点でした。
溝の中に土器が見つからない墓の方が多いのですが、供献土器を供えない墓もあったでしょうし、あるいは、何度もの洪水に襲われて押し流されてしまったと考えられます。
周溝の中の土器
CD区域方形周溝墓の全貌
供献土器
発掘された供献土器
供献土器の中には、土器の側面にわざわざ小さな穴を開けたものもあり、供献に対する考え方が読み取れます。
供献土器は壺が約75%、甕が15%なのですが、環濠から見つかる土器(実生活で使われる土器)は
壺が40%、甕が50%となっており、壺と甕の比率が大きく異なっています。
壺は貯蔵・保管用、甕は煮炊き用・・・と用途を考えると、供献土器に壺が多いのは、死者に食べ物や水をお供えしたからでしょうか。
竪穴住居の集落

集落の構造

C区域を中心に広がっていた第1時期の周溝墓群に対応する集落は、発掘調査区域では見つかっていません。
一度洪水に見舞われた後、第2時期に築造される周溝墓に対する集落は、遺跡分布図(第2時期)にあるように一部が見つかっています。分布図のD区域の方形周溝墓に対しては、D区域の東端(約60棟)、西端(3棟)の集落に対応していると考えられ、A区域の方形周溝墓に対応しては、C区域東端(18棟)または弥生中期末の河道により破壊された区域周辺にあったと考えます。見つかっている竪穴住居は大きな集落の一部であり、もっと多くの住居がある大きな集落だったようです。
ここに記した住居数は同じ場所に建て替えて重複している建物跡もカウントしており、同時にこれだけの建物があったわけではありません。
D地区の竪穴住居群の図を示します。 竪穴集落
ここは発掘範囲の下流域に当たるところですが微高地となっており、弥生中期〜後期、奈良・平安時代の地層が近接しています。
このため竪穴住居も後世の削平を受けており、さらには洪水の影響もあって住居跡の検出が難しくなっています。そのため、竪穴住居の全体が把握できるものは少なく、集落の全体像を的確に捕まえるのは難しい状況です。
集落の西側、南側には大溝が巡らせており、その外側には住居跡が見当たりません。
環濠で囲われた弥生中期の"環濠集落"を想像できますが、溝幅は3m前後、深さは1m前後とあまり深くなく、防御用の濠とは考えにくいです。
ここは野洲川の三角州に当たるため、排水用の溝とも考えられます。 現在でも農村へ行くと集落の中を小川がながれていますが、そのような性格のものかも知れません。

竪穴住居の構造と形状

竪穴住居は、家屋の床面を円形や方形に掘りくぼめて、垂直に近い壁や平らな土間(どま)の床をつくり、上部に屋根を構築した半地下式の住居です。周囲には土を盛り雨水が入るのを防いでいました。
内部には数本の柱穴、炉(ろ)、かまど、貯蔵穴などを設けていました。柱穴は規模によっても違いますが4〜6本の柱を立てていたようです。 竪穴住居構造
床面に掘った竪穴の形状は弥生時代〜古墳時代は丸形や方形、隅が円形の隅丸方形などがありました。
弥生中期の服部遺跡では、円形が約60%、隅丸方形が12%、方形が12%、不明16%となっており円形が多いようです。
竪穴の構造
重複切り合いのある丸形竪穴住居
竪穴の構造
隅丸方形の竪穴住居
竪穴の構造
方形の竪穴住居

それにしても、床穴の形状はどのような判断で決めたのでしょうか?
穴の深さは10cm程度から40cmくらいです。これは地方、時代によって異なります。
竪穴の広さ(居住域)は、丸形竪穴で10u〜40u、平均約20uで、方形、隅丸方形竪穴で10u〜30u、平均は丸形と同程度で20uくらいです。現在で言うなら、12畳一間の家となります。
とりわけ広い竪穴住居はなく、住む人数によって大きさを決めていたと思われます。
集落からの出土遺物

一般的な出土物

前述した竪穴住居跡や土坑、集落をめぐる溝などから多数の土器のほか、磨製石剣・石鏃・石斧類が多数出ています。
住居跡や土坑から見つかる土器は細かく割れたものが多く、溝から見つかる土器は完形に近いものや割れの少ないものが含まれる傾向にあります。非常に多くの土器が出てきたので、近江地域の弥生土器の年代分析の基礎データ作りに役立ったようです。
中期土器
溝から出た土器
石斧
石斧
加工用石斧
加工用石斧、石のノミ

特殊な出土物

上に記した土器・石器は多くの弥生遺跡で出土するものですが、弥生中期の服部遺跡から玉作り関係の石器や石製の鋳型など、特殊な遺物が出ており、遺跡の性格がうかがわれます。
【玉作り関係の石器】
近江南部は玉作り関係の遺跡が多いところですが、服部遺跡から玉原石を切るときに使う石鋸が数点見つかっています。ここで玉製品を作っていたと思われます。

(玉作りについては、姉妹ホームページ「野洲川下流域の弥生遺跡」を参照してください  ⇒ ここをクリック)
【鋳型】
また大阪湾型銅戈の石製鋳型も出ており、ここで銅戈の鋳造をしていたと思われます。(後述しますが弥生後期には銅鐸の鋳型もでており、銅製品を作っていたことは確かでしょう)
弥生中期、大阪湾沿岸一帯で祭器として使われていた銅戈の鋳型が、この地で出土するということは、不思議な感じがしますが、ここが供給基地であったのかも知れません。
玉作りと銅製品を同時に作っている遺跡は珍しく、服部遺跡はこの地方の中核的な集落であったことを物語っています。
  (銅戈の鋳型は、当初「銅剣」の鋳型と見做されていましたが、検討の結果「銅戈」ということになりました)

玉作用石鋸
玉作用石鋸
石製鋳型
大阪湾型銅戈の石製鋳型
参考:大阪湾型銅戈
参考:大阪湾型銅戈

土器の種類と数量

多くの土器が出ていることから、当時の人がどのような土器を多く使っていたのかが判ります。
弥生中期後半〜後期初頭(分布図の後半時期)の集落に住んでいた人たちが大溝に捨てた土器の統計データがあります。土器形式が判る237個の土器の分類は次の通りです。 土器の種類
煮炊きに使う甕(かめ)の数が一番多く半数をしめています。火にかけることから壊れることも多かったのでしょう。貯蔵用の壺・鉢は合わせても40%強です。
高坏(たかつき)は食べ物を置く食器と考えられています。当時の土器としては、この他、水差しやミニチュア土器等があります。
周溝墓祭祀の想像図
周溝墓祭祀 方形周溝墓でどのような埋葬儀礼が行われたのかは判りませんが、土器を供えて何らかの儀礼をおこなったようです。服部遺跡からは見つかっていませんが、近江地域では木偶が埋葬儀礼に使われたようです。
木偶については「野洲川下流域の弥生遺跡」のホームページに解説しています。

こちらをクリック  木偶を見る

mae top tugi