古墳時代前期(集落、導水施設)
弥生時代後期に栄えた集落も、後期末には再び大洪水に見舞われ廃絶してしまいます。
しばらくして、今度は古墳時代前期の新しい竪穴集落と導水施設が作られます。この集落も、古墳時代前期中頃の大洪水によって壊滅します。
洪水による集落の廃絶は、服部ムラだけではなく、野洲川下流域の三角州〜氾濫原に立地する多くの集落にも見られることです。弥生中期から古墳時代前期に栄えた三角州〜氾濫原集落は廃絶し、野洲川扇状地の付け根付近に新しい集落が急激に形成されます。
このことは、びわ湖の水位上昇も含め、野洲川が極めて深刻な洪水の周期に入り、氾濫原〜三角州では集落が形成できなくなったようです。
竪穴住居群の想像図 (配置は発掘された通り) (絵 中井純子)
しばらくして、今度は古墳時代前期の新しい竪穴集落と導水施設が作られます。この集落も、古墳時代前期中頃の大洪水によって壊滅します。
洪水による集落の廃絶は、服部ムラだけではなく、野洲川下流域の三角州〜氾濫原に立地する多くの集落にも見られることです。弥生中期から古墳時代前期に栄えた三角州〜氾濫原集落は廃絶し、野洲川扇状地の付け根付近に新しい集落が急激に形成されます。
このことは、びわ湖の水位上昇も含め、野洲川が極めて深刻な洪水の周期に入り、氾濫原〜三角州では集落が形成できなくなったようです。
竪穴住居群の想像図 (配置は発掘された通り) (絵 中井純子)
遺跡分布
古墳時代前期には新しい竪穴集落と導水施設が作られます。
古墳時代前期の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)
古墳前期初めの洪水で弥生時代の環濠集落は埋没し、しばらくして新しい竪穴集落と導水施設が作られます。
導水施設は旧河道が埋没して出来た陸地で、集落からは少し離れたところに造られました。
古墳前期の様子
この時期の遺跡の平面図を示します。古墳時代前期の遺跡分布 (服部遺跡発掘調査報告書 一部改変)
古墳前期初めの洪水で弥生時代の環濠集落は埋没し、しばらくして新しい竪穴集落と導水施設が作られます。
導水施設は旧河道が埋没して出来た陸地で、集落からは少し離れたところに造られました。
竪穴住居群(古墳前期)
集落の構造
後期後半末、環濠の機能は停止し、大量の土器が環濠内に投棄され始めます。これと並行し、環濠の東側を中心に、隅丸方形の竪穴住居祉が、爆発的に建造され始めるのです。発見されている住居祉は、古墳時代前期前半を中心に約100棟以上にのぼり、3-4回の建替えが認められます。一部、古墳前期後半のものも認められます。
竪穴集落の配置 |
竪穴集落の遠景 |
河道Aと護岸工事 |
川岸が崩れるのを防ぐために護岸工事をしていた痕跡が残っています。川岸から川縁へ降りていくためと思われる梯子が川岸で見つかっています。当時の人は川を生活の中で使っていたようです。
弥生後期の環濠集落は洪水で埋没しますが、泥水が溜まったような状態になっていたようで、ゴミ捨て場として使われていたようです。
竪穴住居
竪穴住居は、一辺6〜8m余の隅丸方形プランが基本形で、四主柱式で中央に炉を持ち、屋内土坑を持つものがありました。4〜6棟が中央の広場を囲むように一つのグループを構成することが多いようです。広場には作業場を示す小溝・小ピットを残すケースもあります。弥生時代に多く見られた円形竪穴住居は見られなくなりました。
竪穴住居の重複 |
竪穴住居 |
集落の廃絶は定かではありませんが、一部火災の痕跡を残すものもあり、台風などによる洪水が集落を一気に飲み込んでしまったと思われます。
集落からの出土遺物
この時期で注目されるのは上述の環濠だけでなく、ムラの東西を大きくえぐりびわ湖にそそぐ旧河道にも、大量の土器とともに、農具をはじめとする大量の木製品が投棄され、しだいに埋没していることです。
弥生時代から続くいろいろな土器が多数出土しています。
左から 甕 ; 壺 ; 鉢 ; 細頸壺 ; 高坏 ; ミニチュア土器
鋤もいろいろな稲作作業に適した機能目的に合った形状のものが出土しています。鋤の形状や幅などに細かな工夫されており、当時の人の知恵が読み取れます。
例えば 先端形状がフラットなものや尖ったもの、湿田に適した先端が二股に分かれた二股鋤、溝掘りに適した狭幅の鋤などの種々の鋤が出土しています。
図には、一本の木材から削り出した「一本鋤」と把手と鋤本体を組合せる「組合せ鋤」を示しています。
この時代、すでに鉄が武器などに使われるようになっていますが、鉄製の農具はまだ使われていない状況です。
ただ、鋤先にU字型の鉄はめ込むものが使われていましたが、遺物としては見つかっていません。しかし、先端に鉄をはめ込んだ跡や圧痕が認められるものがあり、鉄も部分的に使われていたようです。
そのほか、さまざまな土木建築材・用具が多数出ています。
ほう製とは、弥生時代や古墳時代に中国の鏡を模倣したものを指し、この鏡も仕上がりが悪く、鏡面の磨きも荒いものです。
全長約8cm、幅・厚さ共に1.5cmとなっています。
頭部は竹串の節を中央で一線上に揃えてかがり、それを要として曲げています。頭部、櫛の中央部、外側には黒漆が塗られており、腐食を防ぐとともに装飾を施しているのでしょう。
柄部、鞘上部、鞘端部を朱で塗ってあります。
環濠からの土器出土状況 |
環濠からの土器出土状況 |
一般的な出土物
左から 甕 ; 壺 ; 鉢 ; 細頸壺 ; 高坏 ; ミニチュア土器
いろいろな木器・木製品
旧河道は次第に埋まっていきますが、地下水位が高かったのでしょう、多くの木製品が良好な状態で残されています。【農具】
いろいろな形の鍬(くわ)や鋤(すき)、田下駄、田舟などの農工具が出ています。 鍬もいろいろな種類のものが出ていますが、湿田や半湿田での使用に適した泥除けも出土しました。
鍬と泥除け |
鋤もいろいろな稲作作業に適した機能目的に合った形状のものが出土しています。鋤の形状や幅などに細かな工夫されており、当時の人の知恵が読み取れます。
例えば 先端形状がフラットなものや尖ったもの、湿田に適した先端が二股に分かれた二股鋤、溝掘りに適した狭幅の鋤などの種々の鋤が出土しています。
図には、一本の木材から削り出した「一本鋤」と把手と鋤本体を組合せる「組合せ鋤」を示しています。
この時代、すでに鉄が武器などに使われるようになっていますが、鉄製の農具はまだ使われていない状況です。
ただ、鋤先にU字型の鉄はめ込むものが使われていましたが、遺物としては見つかっていません。しかし、先端に鉄をはめ込んだ跡や圧痕が認められるものがあり、鉄も部分的に使われていたようです。
【いろいろな木器】
農具のほか、日用具として、槽、盤、鉢、高杯、などの容器、ちきり・?(ちまき)・糸巻きなどの機織り具をはじめ、竪杵、臼、蓋、まな板、火きり弓や火きり臼などの火起こし道具などが出ています。そのほか、さまざまな土木建築材・用具が多数出ています。
上段左:木製紡錘車 上段中:四脚付き皿
上中段左:杓子 上中段右:まな板?
中段:石斧の柄 下段:梯子
上中段左:杓子 上中段右:まな板?
中段:石斧の柄 下段:梯子
特殊な出土品
【勾玉・管玉】
碧玉製の勾玉、碧玉製の管玉が旧河道Aから出土しています。【小型ほう(イ+方)製内行花文鏡】
古墳時代の溝から見つかりました。直径約8cmで、背面に内行花文が2重に巡らせてあります。ほう製とは、弥生時代や古墳時代に中国の鏡を模倣したものを指し、この鏡も仕上がりが悪く、鏡面の磨きも荒いものです。
【竪櫛】
9本の薄く削った竹串を並べ、中央部からU字状に曲げてその根元を細い糸状の樹皮でくくった櫛です。全長約8cm、幅・厚さ共に1.5cmとなっています。
頭部は竹串の節を中央で一線上に揃えてかがり、それを要として曲げています。頭部、櫛の中央部、外側には黒漆が塗られており、腐食を防ぐとともに装飾を施しているのでしょう。
勾玉・管玉 |
小型鏡 |
竪櫛 |
【朱塗り木剣】
溝底から出土した朱塗の木剣です。鞘(さや)に収めた状態を模しており、柄(つか:握り部)、鍔(つば)および鞘部(さやぶ)を一括して削り出しています。鞘部は断面が菱形で鞘端部は方形としており、金属で覆う形を表現しているようです。柄部、鞘上部、鞘端部を朱で塗ってあります。
導水施設
古墳時代前期には、弥生後期にできた河道も次第に埋まり水量が減少していたと見られます。
そのような河道の縁辺部に導水施設が築造されました。
導水施設とは、弥生後期〜古墳時代の首長による水の祭祀にかかわるもので、祭祀に用いる聖なる水を得るための施設です。構造的には、川から水を引き入れ、貯水した後、ろ過した上澄みの水を取り出す仕組みとなっており、木樋をつないで水を流す構成になっています。
導水施設を模した、囲形埴輪がいくつかの古墳の祭祀域から出土して、首長の水の祭祀(聖なる水を得る)を模しています。 したがって導水施設のある集落は、大きな力を持った首長がいた所と言うことになります。
服部遺跡の導水施設は、古墳前期の集落の北側、埋没過程の幅も狭く浅くなった川の対岸で、周りに住居がないところに作られています。
先ず、上流側に、約4m×2m、深さ40cmほどの杭列と板で囲われた水溜のような遺構があります。
周辺には杭や加工木材が散乱しており、何らかの付帯施設があったようです(A部)。ここで泥など不純物を沈殿した後、幅約1m、深さ20cmの素掘りの溝を通って下流へ流れます。
水溜から下流5mほどのところに長方形の区画に堰(せき)状施設があり、浄水機構などが考えられますが、用途は不明です。そこからさらに5mほど下流に導水施設(B部)の本体が設けてあります。
導水施設(平面図)
導水施設 (左:方形溜遺構状 右:導水施設本体)
導水施設本体の入り口部には、桝状の水量調節機構が設けてあり、U字型の切り込みを通った上澄みの浄水が一度槽で受けられます。そこから、一木造りの4m強の木樋を経て下流へ導かれます。この部分には石が敷き詰めてあり、水汲み場として使われ上屋のような建物があったようです。
槽は長さ1m、幅60cm、深さ15cmで、樋管は長さ3.3m、幅28cm、深さ10cmとなっています。石敷き遺構は槽の部分を中心に、こぶし大の石を東西3.7m、南北2.2mの範囲に敷き詰めたもので、その周囲には、4か所で柱根が検出されており、簡単な上屋があったと推測できます。
周辺からは土器などの遺物が全くなく、日常的な施設ではなく、祭祀に関する浄水を得るための聖なる祭場であった可能性が強いです。
野洲川下流域では、弥生中期の下鈎遺跡、弥生後期の伊勢遺跡でも「導水施設」と思われる遺構が見つかっています。これらはまだ先駆的な構造で簡素ですが、服部遺跡では本格的な「導水施設」が構築されていました。このことより、服部ムラには強力な首長がいたと推定されます。
奈良の纒向遺跡や南郷大東遺跡からもよく似た遺構が出土しています。
導水施設の想像図 (絵 中井純子)
導水施設とは、弥生後期〜古墳時代の首長による水の祭祀にかかわるもので、祭祀に用いる聖なる水を得るための施設です。構造的には、川から水を引き入れ、貯水した後、ろ過した上澄みの水を取り出す仕組みとなっており、木樋をつないで水を流す構成になっています。
導水施設を模した、囲形埴輪がいくつかの古墳の祭祀域から出土して、首長の水の祭祀(聖なる水を得る)を模しています。 したがって導水施設のある集落は、大きな力を持った首長がいた所と言うことになります。
服部遺跡の導水施設は、古墳前期の集落の北側、埋没過程の幅も狭く浅くなった川の対岸で、周りに住居がないところに作られています。
先ず、上流側に、約4m×2m、深さ40cmほどの杭列と板で囲われた水溜のような遺構があります。
周辺には杭や加工木材が散乱しており、何らかの付帯施設があったようです(A部)。ここで泥など不純物を沈殿した後、幅約1m、深さ20cmの素掘りの溝を通って下流へ流れます。
水溜から下流5mほどのところに長方形の区画に堰(せき)状施設があり、浄水機構などが考えられますが、用途は不明です。そこからさらに5mほど下流に導水施設(B部)の本体が設けてあります。
導水施設(平面図)
導水施設 (左:方形溜遺構状 右:導水施設本体)
導水施設本体の入り口部には、桝状の水量調節機構が設けてあり、U字型の切り込みを通った上澄みの浄水が一度槽で受けられます。そこから、一木造りの4m強の木樋を経て下流へ導かれます。この部分には石が敷き詰めてあり、水汲み場として使われ上屋のような建物があったようです。
槽は長さ1m、幅60cm、深さ15cmで、樋管は長さ3.3m、幅28cm、深さ10cmとなっています。石敷き遺構は槽の部分を中心に、こぶし大の石を東西3.7m、南北2.2mの範囲に敷き詰めたもので、その周囲には、4か所で柱根が検出されており、簡単な上屋があったと推測できます。
周辺からは土器などの遺物が全くなく、日常的な施設ではなく、祭祀に関する浄水を得るための聖なる祭場であった可能性が強いです。
野洲川下流域では、弥生中期の下鈎遺跡、弥生後期の伊勢遺跡でも「導水施設」と思われる遺構が見つかっています。これらはまだ先駆的な構造で簡素ですが、服部遺跡では本格的な「導水施設」が構築されていました。このことより、服部ムラには強力な首長がいたと推定されます。
奈良の纒向遺跡や南郷大東遺跡からもよく似た遺構が出土しています。
導水施設の想像図 (絵 中井純子)